連載

「宇多喜代子の本棚」[1]

2020.2.1

あたまの襞奥の句   
宇多喜代子

ある季節がくると、ある場所に立つと、またはある旬のものに出会うと、かならず口遊む俳句がある。もう幾年も前からの私の癖のようになっていて、年来の飲み友達など、桜鯛の頃の居酒屋で「明石の昼網の鯛」の刺身やあら煮が出ると、私より先に「ほれほれ、トトトだよ。コマゴマだよ」と皿をすすめつつ、

トトトトと鳴る徳利や桜鯛  京極杞陽
こまごまと白き歯並や桜鯛  川端茅舎

に声を合わせてくれる。毎度のことなので、ともに覚えてくれたのだ。この句を口にするだけで、皿の刺身は五倍にも十倍にも輝きを増し、満足の時間はおおきく膨れあがる。

冬の恒例の薬喰に牡丹鍋を囲むときも、もはや儀式の前のお祓いのように、

大根が一番うまし牡丹鍋  右城暮石

を声にする。すると、これが本当になるからお祓いの効果は上々となる。味につよい個性を持たない大根が、鍋の中のもろもろから出るよき味を吸い込んでしまうのだ。

時節にかならず炊く豆ご飯ができると、

歳月やふっくらとこの豆ごはん  坪内稔典

が口をついて出てくる。わが家では豆飯とこの句がセットになっており、食卓を囲むみんなが何の抵抗もなくこの句を口にする。「歳月や」ってなーに、というようなことは誰も気にしない。眼前の豆ご飯がふっくらとしていればいいのであって、この句即ち豆ご飯なのだ。

新米を目にすると、

新米の粒々青味わたりけり   福永耕二

が口から迸り出る。透明度のある米の一粒一粒が重なると全体に青味が重なる。この句は昭和五十五年刊行の句集『踏歌』収載の句で、私が手にしたのがその年であったから、もう四十年も前のこととなる。『踏歌』が出て間なしに福永耕二の訃報が報じられ、愕然としたことを思い出す。享年四十二はいかにも残念であった。生存であれば、八十歳か。

この句を抽いて以来、秋の新米のたびにこれが身のどこからか湧いてくる。

いずれも思い出すとか、頭のなかで諳んじるとかいうのではなく、私の場合、声に出していわば放吟する。そうしないと、セレモニーの効果が消える。

ところが、声にすると宙に飛んでゆきそうで、念ずるように口内に留める句がある。

福永耕二と川口重美の句だ。新宿の高層ビルを目のあたりにするたびに声を出さずに吟ずる句がある。

新宿ははるかなる墓碑鳥わたる  福永耕二

と、この句と連動して湧いてくる、

渡り鳥はるかなるとき光りけり  川口重美

である。福永耕二は、生きたい命を病魔に断たれたが、川口重美は生きられる命を自ら断った。新宿のビルとその上に広がる空を見るたびに、この二人が「渡り鳥」に託したものとは何であったかを考える。川口重美の句など、初見の日からもう六十余年を経ており、福永耕二にして四十年を経ているのに、わが脳の襞奥に潜んでいて、「渡り鳥」という文字を見たり、都市の空を見たりすると、それが誘い水となってどどっと出てくる。これを無声で諳んじるのだ。 

次の句は、誰はばかることなく声にする。

ゆるぎなき青田の色となりにけり  清崎敏郎 


清崎敏郎句集『凡』
(平成9年・若葉叢書・ふらんす堂)

平成九年刊行の句集『凡』収載の句である。この句が今から二十余年前に出された句集の句であることを知ったのは、昨日のこと。清崎敏郎門の一人である西村和子を煩わせて教示を受けたものである。

どの歳時記の例句にもなく、ただ私の所持する古い歳時記の「青田」の項の欄外に書き込んでいるだけの句で、どこから引いたものやら、確かな出典がわからない。句集刊行当時、書き抜き、忘備のために歳時記に書き込んだものらしい。それゆえに、私の字で書いたこの句が、はたして清崎敏郎の句で間違いないのかどうか、それすらが怪しくなってくる。そんな句であるのに、この句を書き込んで以来、何年もの間、青田を目にするたびに幾度も幾度も口にしてきた。その時には、その句の作者が誰であるかなど気にもせず、いい句だなぁと思うだけで、「ああ、ゆるぎなき青田の色だ」と稲の穂先に触れる。

ところが、七月半ば、田んぼの友人と青田を左右にした畦道を歩いていて、思わずこの句を声にして吟じたところ、俳句とは無縁の友人が、ええ句やなぁと立ち止まり、あんた、そんなええ句を作ったのか、と尊敬の目を向ける。いやいやわたしの句ではない、清崎敏郎という人の句、といえば、その人は田を作っている人なのか、という。

この友人は、以前、新聞投句の入選句「なんとかの夜道に白き稲の花」という句を見て、こんなことはない、稲の花が夜咲くとはなぁ、俳句は不思議なことをいうもんだ、と呟いていたことがあった。日本の気候では、稲の花が咲くのは午前九時ころから昼過ぎまでである。そのことを不思議だといっていた友人が、ふうん、田を作っていなくても、ようわかるものだな、俳句とは不思議なものだというのだ。

その夜、慌てた私は夜中であったにもかかわらず西村和子に、清崎敏郎にこの句があったかどうかを問い合わせた。多忙なはずの西村和子は、先生の句集を繙き、この句が『凡』の句だとすぐに返事をくれた。そこで自信をもって、田んぼの友人にこの句と作者の名をはがきに記して送った。

ひょろひょろの早苗が五風十雨と太陽の恵みの日を重ね、「ゆるぎなき青田の色」になる。こんな慶事はない。なにかが不足だと、稲は「ゆるぎなき青田の色」にはならないのだ。

田を作っていてもいなくても、「ゆるぎなき青田の色」の青田中の青田道で、青田波、青田風に吹かれていると、この先の厄日が無事であるようにと願わずにはいられなくなる。

ずいぶん前、この友人からこんなことを指摘された痛烈な思い出がある。田んぼ仲間で旅をした際に、句帳の句をペンで消し、その横に新案を書くという「書いたり 消したり」を、不覚にも見られてしまったのだ。そのときのこと、あんたのやってること簡単でええなぁ、しくじったら消して書けばいいのか、わしらはしくじったら次の年の季節が来るまで、やり直しがきかん。だから親父の代、祖父の代がやってきたことが無視できんのだ。わしらには、昔の人の知恵が教科書よと述懐したのだ。

書いたり消したりしているけれど、わたしだってタイヘンなんだよ、などとは言えたものではない。新しい肥料を使うとき、旱(ひでり)が続くとき、田植えの時期が狂ったときなどなど、たしかにしくじると、そこで学習したことは来年の同季節が巡り来るまで待たねば修正することは出来ない。それが、この国の農というものだ。

いまも句帳の句を書いたり消したりしながら、ふと田の人々が風を鎮める祭を続けたり、雨乞いをしたりする非科学的な数々の古来の行事祭事のもたらす心性のつながりの強さを思い、これらを留めた歳時記を凄い書物だと思うのだ。

あらためて稲田を「ゆるぎなき青田の色」にするまでの過程と歳月を思い、その色に目を止めた清崎敏郎のたしかな俳句の目を思ったことである。

これからも青田に触れるたびにこの句を放吟するだろうが、放吟したくなる句と、そうでない句を分かつのは何か、その境界線を考えている。

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