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高山れおな句集『冬の旅、夏の夢』
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◆高山れおな作家小論

夢の俳人…………田中惣一郎

人の遊び、俳句の幸せ 

 高山れおなは、ずっと以前から一貫して変な人だった。平成年間を見渡しても、彼ほど多様なアプローチをもって俳句で遊んだ人物は他にいないだろう。まさに彼は、俳句で遊び倒している、と形容するのがふさわしい俳人だ。

 第一句集『ウルトラ』(1998、沖積舎)では、  

  日の春をさすがいづこも野は厠

 と其角の本歌取りをして古格を気取ったかと思えば、

  失恋や御飯の奥にいなびかり
菊の香や眉間よりビーム出さうなり

 といった飄逸も見せた。

 第二句集『荒東雑詩』(2005、沖積舎)は全句に詞書が付された異色の句集。

  秋簾撥(かか)げ見るべし降るあめりか

 は「香炉峰の雪」と掛けて9・11の事件を詠み、

  麿、変?

 といった短律まである。

 第三句集『俳諧曾我』(2012、書肆絵と本)では造本まで風変わりなものになり、真四角に近い変形判の函入りで中綴じの八分冊、という大変に凝った装幀。

 しかし中身は、異端にして正道とも思わされるもので、この句集の表題作がモチーフとする「曾我物語」は今でこそ馴染みがない人が多かろうが、俳諧連歌の勃興期には現代のワンピース並(?)に巷に知れ渡っていた物語であり、古俳諧にはよく出てくる題材なのだ。​

  復讐もしたさ、薄荷の煙草吸ひながら
  鳥ぢやない 幸福(しあはせ)を追ふ 狩だ。真実(ほんと)は​

 と、現代の風俗、今に至るまで俳句の培ってきた技法、様々織り交ぜて書かれた連作句である。俳句の大きな属性の一つに、題をとる文芸だ、ということが言えるが、その意味でこの二次創作的な取り掛かり方は極めて純粋な俳句連作の方法と言えよう。 

旅のうた、夢みる技巧 

 さて、高山の第四句集となる『冬の旅、夏の夢』は全体が二部立てとなっていて、第一部は旅吟を集めたものだ。

 この旅吟でもっぱら駆使されるのは、季題そのものに向かって書く題詠的志向ではなく、書くことの中に季題を見つけるという秋櫻子・誓子以来の文体だ。その巧みな季題の引き込みが見られる、イスタンブール、トプカプ・サライでの作。​

  四阿(キョシュク)の窓静か旱天の青を嵌め​

 ここには、キョシュクの荘厳を凝縮したかのような佇まいの中、その窓の内から空を見つめる視線自体がいかにも「静か」であり、からりと晴れた空に「旱天」の季感を読み、かつ窓に収めて狭めたかたちを景とすることによって句に緊密な面持ちを与える技巧がある。

 この種の季題の器用な繰り出し、千変万幻の文体、そして次々に立ち現れる清新な異国の景とが相俟って、一句一句が確かな感触をもって立ち上がる。さらには各句が次々と唱和するように包括的な情感をかたちづくっていく、非常にリーダブルな構成にもなっている。 

 冒頭を飾る「イスタンブル花鳥諷詠」から、フランス、富士山、ロンドン、須磨、モンゴル、ローマとそれぞれにまた新たな趣があるが、白眉は第一部最終章である「はるひ、かすがを」だ。

 春日大社を訪れた際の作の劈頭、詞書に「鹿島社の武神タケミカヅチが鹿に乗り、/御蓋山に降臨したのが春日社の起こり。」と記す句。​

  日本中デコトラ走る建国日​

 彼の地で走るデコトラをたまたま見かけ、その疾走する日本全土、またここで出会ったそのデコトラそのものへと続く文化の辿った歴史を思い、捕まえた嘱目詠だ。

 写真家である田附勝の写真集『DECOTORA』(2007、リトル・モア)は当時の華美な装飾を施したトラックの姿の隅々を写した興味深い本だった。トラックを装飾する文化は1975年からの映画「トラック野郎」シリーズの頃と、つながっているようでおそらくは――俳句と同じで――そう順接でもないはずで、世代世代の好む文化の色合いが別個に細胞分裂のごとく華美の度を増して表れているのではないかと思う。現在のトラックも同じく、現在がオリジナル、の意識があろう。

 一方の「建国日」だが、諸外国では建国を記念する祭日といえば、革命が達成された日や、他国による占領から独立した日など、近代にその源流を置くものが多く想起されるが、日本の「建国記念の日」は紀元節、つまり神武天皇が即位したといわれる気が遠くなるほど遥かに遠い、記紀神話世界に由来するものである。春日大社へ赴いた先の、一瞬の衝突的な路頭での嘱目の出会いから広がる景の含むものは案外に大きい。

  この章には、神社ならではの素材がふんだんに取り入れられる。次に挙げるのは「この日は五月五日にて菖蒲祭、斎行せらる。/また立夏に当たれども、弥生尽は翌六日なりき。」と詞書がある句。​

  高杯(たかつき)に高杯つゞく夏や春​

 「高杯」とは食物などを載せる器で、一本足のお膳のようなものを想像してもらえれば良い。高杯が続々と出てくるのは神事の様を書きとめたものだろう。しかしこの句の眼目は「夏や春」にある。古今集にある在原元方の有名な和歌〈年のうちに春は来にけりひととせを去年とやいはむ今年とやいはむ〉は年内立春を詠んだもので少し事情は違うものの、高山句の新暦と旧暦のずれを体感して季節のはざまに惑う感覚もこの歌に和するものがあると言えよう。  

挨拶、うやうやしく滑稽な 

 旅吟以外の作を集めた第二部は「お年玉」と題する一句からはじまる。「歳晩、高橋龍氏より句控を賜ること幾たびぞ。/みなグラシン紙を掛けたる文庫版の小冊にて、/おのづから読初の料となれば。」と詞書。​

  龍(ロン)様のブーブー紙がお年玉

 高橋龍は昭和4年生まれ、高柳重信や三橋敏雄に師事した俳人で、近年の氏は自作を「句控」と称した小さな本にして発行していた。その体裁はいかにも可愛らしく、自ずと微笑みを誘う。掲句はまさにこの気分をうまく書きとめた上質な挨拶である。恐らく、句控を送られた人々ならば皆が共感を寄せるであろう秀吟だ。高橋は『冬の旅、夏の夢』が刊行された翌月の、2019年1月20日に逝去した。この句を目にしていただろうか。​

  行き合ひて風の光やこんにちは

 「行き合ひ」とは隣り合う季節のちょうど変わろうとするところをいう言葉で、この句に崩して書かれた季題は早春の「風光る」だから、句意としてはほぼ何も言っていないわけだが、とにかくもその技巧で読まされてしまう。下五の「こんにちは」にはふざけてつけている感触もありながら、早春の風を浴びて遭遇した季節への「こんにちは」でもあり、これだけひねっても季題を真正面から摑むことはできるのだという驚きがある。

 また第二部には、2012年に亡くなった加藤郁乎について書かれた句があちこちにあったり、折々に見た映画や読んだ本など体験からの嘱目とでもいった風情の洒脱な句、そして、​

  出歩いてハート撃ち抜かん業平忌

 といった魅力的なイメージ一本槍の颯爽とした句もある。プレイボーイ然とした在原業平の姿を現代の軽い言葉に映しつつ、この大げさな身振りはきっと心中で思っているだけで、実際はただ街を普通に歩くだけなのだろうとも思わせるところに一抹のおかしみがある。

 高山れおなは持ち前の余裕綽綽といった涼しい顔つきで、聖もあれば俗もある、生な口調をさらりと入れたかと見れば、精緻な古典的技法も混ぜて繰り出す、まこと神妙な俳句の遊び人なのだ。 (了)

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