朔の本
句集『文事』書評・記事
句集『文事』が西日本新聞(2021.10.29)で紹介されました。
評者は谷口慎也さんです。
第4句集。「読み書きの文事一切がますます好きになった」とある。著者は熊本大地震、石牟礼道子の死、そしてコロナ禍、等々を内面化しようと努めてきた人。私はこの一文を著者の最も基本的な「文事」、すなわち文芸的な「身ほとり」の再確認だと受け取った。〈地震越えてこその桜と思ひけり〉〈ででむしの角ふるはせて生きんとす〉〈相聞のごとくに天地初茜〉〈瓦礫みな祈る形に炎天下〉〈丁寧に生きて冬帽膝の上〉〈観音の臍うつくしくしぐれけり〉―岩岡俳句は一貫した「祈りの文学」である。それが天や神なるものへの「存問」として屹立しているが、そこを貫いているものは徹底したヒューマニズムの精神である。すなわちそれは、人のことをわが身の事として感知し、理解しようとする「態度」(生き方)の問題なのだ。
句集『文事』が「俳句四季」2022年1月号「本の窓辺」で紹介されました。
評者は酒井佐忠さんです。
句集『文事』が熊本日日新聞(2021.12.24)で紹介されました。
「自分を見つめ言葉に」
俳誌「阿蘇」主宰の俳人で、熊本大学名誉教授の岩岡中正さん(73)=熊本市=が第4句集「文事」(朔出版)を刊行した。2015年から21年春までに詠んだ396句を収めた。
第3句集「相聞」から6年。熊本地震、親交のあった作家石牟礼道子さんの死、コロナ禍と「思わぬ試練」が続いた。
熊本地震を詠んだ句は、大災害の中、たくましく生きる生物や自然へのまなざしがある。
ぱつくりと大地口開け鼓草
ででむしの角ふるはせて生きんとす
地震越えてこその桜と思ひけり
「物の考え方の根っこを再方向づけ、新しい価値観を示してくれた」という石牟礼道子さんをしのんだ句も。
春潮の沖へ沖へと人逝けり
亡き人に裏木戸開けてある野梅
人間に根つこがありてはうれん草
岩岡さんは、コロナ後は成長や進歩といった価値観から「内省」に重きを置く社会になるのではと考えている。
われらみな罪あるごとく夏マスク
門鎖して疫病怖るる暮春かな
好きなこと文事一切石蕗の花
「情報化する現代は、言葉を吟味する能力が衰退し、感情の幅が狭くなっている」と岩岡さん。句集名の「文事」とは、自分の内側を見つめ思いを言葉にすることだが、言葉の回復や他者との調和を願う気持ちも込められている。(喜田彩子)
岩岡中正句集『文事』が熊本日日新聞(2022/1/18)で紹介されました。
評者は高野ムツオさんです。
相聞のごとくに天地初茜
かつて世界はひとつの混沌であった。いつの頃からか、天と地に分かれた。天は地が恋しくて太陽を照らし、雷や雨を降り注いだ。地もまた森を高くし林を連ね、時には地中の火を天へ噴いては応えた。これはそうした太古以来の宇宙万象の営みを神話的な視座からとらえた句である。初茜という万葉歌を踏まえた季語がよく働いている。
神の嶺より秋風となり来る
という句もある。神の住む嶺から神自身が風となって秋という新しい時間をもたらすのである。芭蕉がいう「物の見えたる光」が正鵠に射止められている。
露けさの山塊をわが力とす
は、その神の力を自らの詩のエネルギーとして授かりたいとの一途な願いが生んだ句であろう。しかし、あくまで静謐謙虚な祈り。そこに、この俳人のまなざしの低さが感じられ清々しい。山塊はむろん阿蘇五岳。風土立脚の意思も秘められている。
瓦礫みな祈る形に炎天下
炎天の塊として歩くかな
は熊本地震を踏まえた作品。瓦礫は作者自身の姿でもある。二句目の受難受苦と一体化した姿からは石牟礼道子が彷彿する。作者に彼女が憑依していたのかもしれない。厄災にあって人は「されく」以外になすすべはない。生者も死者も手を携え、共に歩むのだ。その石牟礼道子追悼の句。
石蕗咲いて天上はいま光凪
草青む踏めとごとくに道子の忌
岩岡中正の句は実に誠実である。矛盾だらけの人間に、その人間によって衰退一方となった自然に対して、ひたむきに愛惜と贖罪の念を捧げ、互いに慈しみ、命を育み合う世界を希求する。その営為こそ文事であり、句集『文事』が目指すものである。
寒雀襤褸のごとく飢ゑてをり
地に跪きては野火を放ちけり
宇宙森閑として夏落葉かな
(高野ムツオ・俳人)