角川『俳句年鑑 2022年版』で、神野紗希句集『すみれそよぐ』、遠藤由樹子句集『寝息と梟』、坊城俊樹句集『壱』、塩見恵介句集『隣の駅が見える駅』が今年の句集Best15に選ばれました。
【山西雅子選】
	                ●神野紗希句集『すみれそよぐ』
	                  水脈も葉脈も春てのひらも
	                  細胞の全部が私さくら咲く
	                  子の臍は日向の蝶の匂いして
	                 身体の感覚を大らかに詠む句に惹かれる。恋愛、結婚、妊娠、出産、育児という時系列構成の中から思案の姿が滲む点も興味深い。直接的表出もあるが、例えばいくつものキーワードの各々の変容に託すなどの形が注意深く取られている。
	                  すみれそよぐ生後0日目の寝息
                の〈すみれ〉も一章〈闇濡れる菫直径一光年〉から五章〈詩のすみれ絵画のすみれ野の菫〉までの六句で少しずつ角度を違える。「人間や愛について深く考えた日々」というあとがきの語に頷く。
●遠藤由樹子句集『寝息と梟』
                    触れずおく冬の菫の耳たぶに
                   菫の花びらを耳朶と見て、耳が聴くものを邪魔せずにいようという。聞こえぬもの見えぬものが確かに在ると知る繊細な感受性は、それぞれ手法を違えつつ次のように現れる。
                    蠟梅を粗朶の束より引き抜きぬ
                    草氷り小鳥の吐きしもの氷る
                    虫鳴くや幻の根をめぐらせて
                    木道の日の斑を辿り冬近し
                   澄んだ寂しさは、
                    ゆく秋のオルガン人が人信じ
                    山近くこぼれむばかり蒲団干す
                という温みとなるのだと感じられた。
【加藤かな文選】
	                ●神野紗希句集『すみれそよぐ』
	                 結婚・妊娠・出産・育児の時間を詠む。私たちはそれを小説のように読む。
	                  細胞の全部が私さくら咲く
	                 結社とは距離を置き、全部一人でやって来た。この全肯定のすがすがしさは、全責任を負う潔さでもある。
	                  どの名前呼んでも寄ってくる子猫
	                  こんな日を小春と名付けたる人よ
	                  手袋も絵本も凍星も齧る
	                  もう泣かない電気毛布は裏切らない
	                  君生まれ此の世にぎやか竜の玉
                   俳人・神野紗希は、歌人・俵万智とよく似たポジションに置かれている。ひたすら自分を詠むことがそのまま俳句史の更新となる。そういう星の下に生まれた。
●坊城俊樹句集『壱』
	                 男と女がいることで芸術は活気づくのに、俳句はうまくいかない。でも、坊城氏はさまになる。
	                  柩より寒き女のベッドかな
	                  キャバレーに電線絡みつつ流星
	                  恋をして薔薇の香りの咳をして
	                 こんな風に男と女をさらりと詠むのは難しい。
	                  水鳥の濠に首挿す祈りとも
	                  銀河系みたいな菊が金賞に
	                  哲学書百年売れ残る余寒
                   おもしろいものが次々と目に飛び込み、さそがし大変だろう。でも俳句の家に生まれるとはそういうことなのだ。
●遠藤由樹子句集『寝息と梟』
	                 抽象と具象を振り子のように往き来して楽しい。句材も豊か。
	                  セメントの袋に降りて百合鷗
	                  冬の薔薇牛乳よりも静かなる
	                  熊と熊抱き合へばよく眠れさう
	                  春遅々と双眼鏡の雨を拭く
	                  一生の早さを知らず浮輪の子
	                 振り子が具体に大きく振れたときの句。〈百合鷗〉の句は心に残る。
	                  秋の風鈴まるで初めて鳴るやうに
                   切れ切れの音が聞こえてくる。観念と実体がみごとに融合した。
【田中亜美選】
	                ●神野紗希句集『すみれそよぐ』
	                 二十代最後から三十代半ばの結婚・妊娠・育児の日々を描く。明晰な知性とみずみずしい感性。現代社会の少なくない不条理にもさわかに立ち向かう。
	                  子音なり網の胡桃が触れ合う音
	                  胎児まず心臓つくる青胡桃
	                  すみれそよぐ生後0日目の寝息
	                  ばいばい雲雀ペットボトルに育つバジル
	                  風尖る梟は絶望しない
	                 〈母〉という視座を得て、世界の認識にさらに奥行きが生まれているようだ。
	                  西瓜切る少年兵のいない国
                    母死んで子象に夏の空広し
●塩見恵介句集『隣の駅が見える駅』
	                 ポップであかるい作風。口語調のかろやかさと句の内容が調和している。
	                  #STAY HOME スイートピーが眠いから
	                  ヨット往く波に付箋を貼るように
	                  赤く塗るティラノサウルス其角の忌
	                 静かな景を描いた句にも余韻がある。
	                  夕薄暑空荷で帰る台車かな
	                  列島をスクロールして秋の風
                    燕来る隣の駅が見える駅
●坊城俊樹句集『壱』 
 句集を「朴念集」「艶冶集」と二分して「実」と「虚」、「聖」と「俗」、「客観写生」と「主観写生」の間を往還する。 
  噴水の微粒子に触れ楽しき日 
  黒揚羽三百歳の松を舞ふ 
  零戦の皮膚薄すぎて梅雨に入る 
  コスモスを咲かせ花街の隅に棲む 
 かつて虚子の示した世界観を、現代に生きる人間ならではの感覚や意識を働かせることで、ゆたかに押し広げている。 
  蕉翁の像は恐らく春袷 
  兜太いま無言となりて秩父冴ゆ 
  虹架けて君来たまへと曾祖父は 
                  
